「逃避する」事は、我々が避けている「不幸」に縛られ続けるという事
幸せとは、必ずしも「悟り」の状態を意味するわけではない。
アボリジニーや原住民たちは、我々と同じ程度に幸せであり、時々はそれ以上でもある。
上流階級だと思われる人々は、彼らほど幸せではないかもしれない。
彼ら(上流階級の人々)の喜びはほとんど「身体の感覚」を通してのものである。
我々の喜びは、「心」を通してのものであり、それゆえより喜びを得ることが出来るのだ。
しかし、「心」がより喜びをもたらすゆえに、それはより「みじめさ」をももたらす。
我々の多くは、幸せの状態が魂の成長をもたらし、それゆえに「幸せ」が正しいことである…と考えている。
これは真実であるかもしれないが、また間違いであるかもしれない。
新しい「覚醒」から得られる幸せは、完全な成長だといえる。
あなたは新たな覚醒に喜ぶだろうが、それは少し自由になり、少しだけ幸せを感じたからだ。
しかし、「不幸せからの逃避」から得られる幸せは、成長ではない。
成長からは少し遠ざかったとも言える。
逃避すると、我々が避けている「不幸」に拘束され続ける事になる。
それら(不幸)に直面し、それを見つめ、そしてそれらを手放すまで、それらは潜在意識にとどまり続けるのだ。
そして完全に手放すまでそれらは繰り返し現れるのだ。
それゆえ、不幸が起こらないようにするには、それらと向き合わなければならず、避けてはならないのだ。
そのとき初めて、逃避は必要ではなくなる。
しかし、成長すればするほど、幸せになるのも真実である。
日々変わらぬ完全なる幸せを得るのだ。
潜在意識から現れて、強迫的に追いつめしつこく我々を苦しめる、「思考」から自由になるのだ。
それは、完全なる存在の感覚である。
それは安全、幸福の感覚である。
たとえ外側の世界で我々に反対することが起きたとしても、世界が我々に反抗しても、以前より深い幸せを感じるだろう。
続きます…
本当に、人間は「苦痛」を避けて通りたい生き物であり、無意識にそれを行ってしまいます。
ですが、それは「苦痛」を温存し続ける行為であり、それに向き合い早く「手放し」た方が、よほど早く幸せに到達します。
これは、完全に「エゴ」がなくなるまで続けなければなりません。
レスターさんは、「逃避」や「抑圧」が一番最悪である…とも言っています。
苦しいとどうしても直面することを避けてしまいますが、そこを逃げずに向き合っていきましょう!(自分に言っています…)