神とグルは常に我々を助けているのだ
独りで瞑想するのが、もっとも効果的である。
グループでの瞑想は、初心者や瞑想に慣れる目的であるのなら良いだろう。
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瞑想は、あなたの真我と交わるためになされるべきである。
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あなたは、あなたのマインドが静まる程度に応じて真我に出会うだろう。
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エゴを取り除く方法は、マインドを静めあなたが何であるかを発見することだ。
それからあなたは自分がエゴではないことに気づき、それを取り除けるのだ。
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集中した瞑想は、あなたを本当の先生であるマスターへと導くだろう。
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肉体の存在から自分を拡大することは、現在の世界の状況においては非常に難しい。
我々を高めるためにはマスターの助けが必要だ。
彼らは我々をそこから引き上げる手伝いをしてくれるだろう。
もし我々が受容的(受身)でなければ、マスターたちでさえもそれは出来ない。
我々のマインドが静まっていなければ我々は受容的にはなれない。
そしてマインドは瞑想を通して静まるのだ。
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瞑想をし、静まり、高次の助けを期待しなさい。そうすれがそれらはやってくるだろう。
神とグルは常に我々を助けているのだ。
グルの助けがあり、我々が十分静まれば、真我を体験できるところまで高まることは可能なのだ。
続きます…
瞑想が必要か必要でないか…というのは、各々の聖者に応じて違っているようです。
悟り関連のいろいろな本を読みましたが、アドバイタ系の方々は「自分とは存在しないのだから誰が瞑想するのだ?」みたいな感じで、特に瞑想を進めていない方もいらっしゃいます。
逆にレスターさんやヨガナンダ、シバナンダ、ラーマクリシュナあたりは瞑想をとても重要視しています。
それぞれ真我を発見した方法によって見解が違うのかもしれませんが、個人的にはどの方法が自分にシックリ来るのか…とどこまで自分を高めたいか…によるような気がします。
私が感じるのは、「自分が存在しない(自我などない)」と気づくのと「真我一体」とは別なのではないか…という気がしています。
覚醒した方々の中でも「覚醒したからといって超人になるわけでもないし、普通だ」という意見の方もいれば、レスターさんのように「全知全能になる」という見解の方もいます。キリストも死者を蘇らせたりしたので、ハッキリいって「全知全能」でしょうし、キリスト自身も「これ以上の技をなすものも現れるだろう」というようなニュアンスの言葉を残しています。
自分が存在しない…と気づくのと、さらに進めて「神(真)我一体」の境地になるのとは、また別でありそこまで進むとなるとやはり「瞑想」が必要なのではないか…という気がします(あくまで個人的意見です)
最近覚醒される方が多いようで、ある日歩いてたら自分が消えた…という経験をされる方も結構いらっしゃるようですが、その方々が全知全能かと言ったらそうではないでしょう。「自分が消えた経験」がそのまま「真我一体」になるわけではない…ということでしょう。
本当に真我一体となったら自分がすべてになり、この世界のあらゆるものと一体となるため全知全能になるのではないか…と個人的に考えております。
どちらが正解とかではなく、どこまで目指すのか…(逆に終わりはないと思うのですが)が大切なのではないかと思います。
個人的にはどうせなら「真我一体」になりたい!と思うので、日々少しずつでも瞑想をしている次第でございます(^_^;)